轢死


午前3時半過ぎに店を閉め、帰路につく。途中、道路の真ん中に轢死した猫がいることに気づいた。はねられたというよりは、もう完全に轢かれたのだろう、無惨にも腸が1メートル程もアスファルトに飛び出していた。深夜とはいえ、その道路はまだ車通りが激しかった。再度轢かれない様にと願いながら2、30秒間車が通り過ぎるのを待つ。50メートル程先の信号が赤に変わり、車通りが一旦止まる。意を決して道路に出て猫の首をつまんで持ち上げる。7、8キロはあるだろうか、かなり大きな猫だった。体内から飛び出た腸が道路に擦れない様に出来るだけ高く持ち上げ、歩道に戻り、そのまますぐそばにあった神社の入り口付近の木の根元に寝かせる。埋葬はしなかった。夜が明ければ神主が気づいて埋葬してくれるに違いないと勝手なことを思い、手を合わせてその場を立ち去った。背負ったリュックにはカメラが入っていたが、その間、この轢死した猫を写真に撮ろうとは思わなかった。


ある写真家がブログで首つり死体を発見したと言っていた。「写真家だから、目を背ける事、ましてはシャッターを切らずにその場を立ち去る事は、すでに絶対に有り得ない事だった」とも、「自分がその場で出来る事は、写真を撮る事以外に何も無かった」とも言っていた。また別の写真家がこの出来事を指し、「ぼくも彼と同様、その場で遭遇したら撮るだろう。撮らないであとで後悔するよりかは撮っておくという思考が働くとおもう」と言っていた。
きっと僕なら撮らない。実際、以前、川で水死体(橋の真ん中に靴が揃えて置いてあったので自殺だと思う)を発見した時も撮らなかった。カメラをリュックから出し、露出を合わせ、ピントまで合わせたけれど撮らなかった。きっとその死体に意思があれば「撮らないでくれ」と言っただろう。僕は先に挙げた二人の写真家を批難しているわけでは全くない。むしろ尊敬している写真家だし、その写真家が撮ったと言うのならその写真を見てみたいとすら思う。ただ僕には、「撮らないでくれ」と訴える死体に対し、その死体を説得できる程の意思も考えもない。死体が写っている写真は雑誌やら写真集やら、素人の写真展ですらよく見かける。僕も写真学生の頃、鳩の屍骸や鼠の屍骸なんかを撮ったことがある。何の考えもなく、ショッキングという理由だけで。死体写真家と呼ばれる釣崎清隆さんという人がいる。釣崎さん程の気合いと根性で死体を撮りまわっている人はすごいと思う。ただ、なんの意思も考えもない者が、たまたま出くわした「死」を、「どうや、すごいやろ!」、「ショッキングやろ!」の為だけに「死」を利用するのはどうかと思ってしまう。自分はどうなんだと自問自答してみると、まったく頼りなく芯のないぐらんぐらんの言葉しか出てこないけれど。