えびす海岸

上京した頃、「写真をやっている」と年長の人に話せば、「俺らの時代は原宿では石を投げたらカメラマンかデザイナーに当たると言われてたんだよ」と、言葉は違っても似たようなことをよく言われた。つまりはそれだけ目指している人が多いのだから、写真で身を立てるのは大変だということだった。僕が上京して来た頃も写真ブームだったけれど、そんな年長者の説教のようなアドバイスのような話は、バブル時代の浮かれた自慢話のようで僕は聞き流していた。

当時はHIROMIXの登場や、ガーリーフォト、雑誌『アウフォト』なんかの影響で、街中カメラをぶら下げた若者だらけだった。街でそういう若者とすれ違う度に「僕はお前らとは違うんや」と強く意識していた。きっと僕自身もそう思われていたんだろうと、今になって思う。



大学を中退し、写真家の師匠にアシスタントとしてつくと同時に、夜は恵比寿にある居酒屋、えびす海岸でアルバイトを始めた。

一時期、そえびす海岸ではアルバイト4人中3人が写真家志望だった。

撮影のアシスタントはなかなか終わり時間が読めずアルバイトの時間に遅れることも多々あったが、とても理解を示してくれ、連絡すれば怒られることはなかった。アシスタントを辞めると同時に、えびす海岸でのアルバイトも辞めた。気持ちの区切りをつけたかったこともあるけれど、自分の写真を持ち込めば仕事はすぐに来るという自信もあった。結局その自身は勘違いに終わった。



20社に連絡しても写真を見てくれるのは1社という感じで、ようやく約束してもらえたその1社も約束の日時に行っても担当者が忘れていて、二時間以上待たされてから「今日は無しで明日また来てください」と言われたこともあった。生意気だった僕は「はい」とは言えず、「僕は約束の時間に来たんやから、もしも見たいんやったらそっちから連絡ください」と言って帰ったが、無名でなんのコネもない新人に向こうから連絡が来るわけがなかった。僕が写真の賞をなにも獲っていないことや、機材が少ないという理由で写真のファイルを開いてくれなかったこともあった。次第に連絡することすら億劫になって持ち込みもやめ、ただ好き勝手自分の写真ばかり撮っていた。「写真の仕事せんでいいねん」と嘘ぶいてはいたが、それがただの言い訳だということは自分が一番わかっていた。雑誌などの写真クレジットで同級生の名前を見るたびに悔しくなったし、育てたくれた師匠に申し訳ないと思っていた。



ようやく今、同級生に比べたらひどく遅いスタートで、さらには少しずつではあるけれど、写真で仕事をさせてもらい、良い編集の方やデザイナーの方に出会えたということは、ただただあの当時の僕に根性が無かったんだと思う。



書いてて色々思い出して横道に逸れまくり、枝葉つきまくりで何が言いたいんかわからんようになってきた。

なんしか、えびす海岸アルバイト仲間でもあり、写真仲間でもあるともちゃんが結婚。

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