日の丸写真

 
 
僕は大学を中退した。
 
なので、先輩のことは先輩なんかじゃないと言い、後輩のことは後輩だと好き勝手都合のいいように言っている。
 
そんな僕にもただ一人、素直に「先生」と呼べる人が大学にいた。大学一年の時の担任の先生だった。
 
世間で言うところの二浪状態で大学に入った僕は、きっと生意気だった。二浪と言えば努力をしたようで聞こえがいいが、実際の僕はといえば、勉強なんて全くせずに居酒屋で毎日アルバイトをし、貯めたお金で何の目的意識もなく三ヶ月間インドをふらふらしたりと、一般的に思い描かれる浪人生のような美しいものではなかった。
 
その結果、希望していた大学の文学部に入ることができず、何一つ知識もなく写真学科に入ってしまった僕は、カメラに対する知識は皆無だった。初めてカメラを買う時も先生に相談に行った。僕が買おうと考えていたカメラは「よした方がいい」と言われ、別のカメラを勧められた。僕が「なんで?」と聞くと、「同じ値段でこっちのカメラの方が断然機能が優れている。カメラに慣れてきたら機能が少しでも多いカメラの方が絶対有利になる」と先生は言った。「なんでそっちのカメラが欲しいと思ったの?」と質問を返されたので、「こっちのカメラの方が黒くてカッコいいやん」と答えた僕に先生は苦笑した。数日後、黒くてカッコいいカメラを首からぶら下げている僕を見て先生は大きく笑った。
 
 
ある課題で、白黒写真の提出の時、僕は黒く、濃く焼いた写真を先生に持って行った。先生は僕のプリントを見て、「もっと明るく焼いた方がいい」とアドバイスをくれた。しかし僕は「これくらい濃い方がかっこいいやん」と言うと、「自分の作品ではいくらでも濃く、好きに焼いたらいい。でも課題写真では適正な調子のプリントを作る練習をした方がいい」と言われた。しばらく自分のプリントを眺め、「ちょっと濃過ぎやなぁ」と感じ、もう一枚ほんの少し、ほんの少しだけ明るく焼いてみた。最初のプリントと交互に眺めると、明るめに焼いたプリントの方が断然良く見えた。「ちょっとだけ明るく焼いてみた」と先生に持って行くと、「作家だったら人の意見に左右されたらいけないよ」と先生は笑った。「先生に言われたからとちゃう。焼いたん見てみて、ほんまに自分でいいと思ったからこっち持ってきたんや」と僕は腹を立てた。「そうか、そうか」と先生は笑って受取った。
 
 
僕の写真は被写体がど真ん中過ぎると言われたこともあった。そういう写真を「日の丸写真」というのだと教えてくれた。もっと構図を考えた方がいいと言う先生に対し、「自分が好きやと思うもん、カッコいいと思うもんを撮るんやから、それが写真の真ん中にくるんは当たり前ちゃうん」と言って僕は聞かなかった。
 
 
先生はいつも静かに、しかし大きく笑う人だった。
二年になって、別のクラスになり、先生に何も言わずに僕は大学を辞めた。
 
 
やめてしばらくして友人が「おい、先生がお前のこと気にしとったぞ。あいつはどうしてる、何してる、元気かって」と教えてくれた。気にかけてくれてるんやと嬉しくなったが、だからこそ余計に、お礼も何も言わずに大学をやめた後ろめたさが先に立ち、会いに行くことはしなかった。
 
 
先日、先生が亡くなったという連絡が来た。
 
 
合せる顔がないとも思ったし、仕事もあったのでお通夜には行けないと思っていた。しかし、急遽少しの時間ができ、「これは行かなあかん」と思った。急に思い立ったので喪服も着ず、ネクタイも締めずに、江古田斎場へ行った。まだ納棺も終わってないというので先生には会えなかった。でもそれでいいと思った。遺族の方に元生徒だということを伝え、先生を送り出す時に一緒に入れて欲しいとお願いし、自分の写真を渡した。『PHOTO GRAPHICA』につけていただいた特別付録写真集と、私家版『昼光ジャズ』。
 
 
先生は僕の写真を見て苦笑いしているかもしれない。
今でも僕のプリントはとても濃いし、被写体はど真ん中にいる。
それでも僕はまだしつこくカメラを首からぶら下げています。
成長が遅い僕は、今でもまだ写真を撮っていますから。