Mのこと

 
 
朝、特に引っ越す予定はないのだけれど、なんとなく、今自分が住んでいる駅周辺の物件をネットで調べてみた。自分の身の丈に合った条件を打ち込んでいくと、物件情報は2件しか出てこなかった。その内の1つは女性限定のアパートで、もう1つは今まさに自分が住んでるアパートが出てきた。
 
 
午後、用事があり家を出た。白金あたりを自転車で走っている時、急に後ろから声をかけられた。止まって振り返ると、以前アパートの隣の部屋に住んでいたMだった。
東北出身なのにいつも真っ黒に日焼けしていたMの顔は以前よりもさらに真っ黒になっていた。
「しばらく石垣に行ってたんだ」とMは言った。
Mは売れないミュージシャンで、僕は売れない写真家だった。
 
 
たまにMの部屋に遊びに行くと、大量にあるレコードを棚から何枚か選んで、「これいいんだよ」と言って聴かせてくれた。Mの部屋にはレコードと洋服、それとドラムセットくらいしか物がなかった。
 
 
一度、夜中の4時くらいにMの部屋からドラムの音が大音量で響いてきたことがあった。隣の部屋のステレオの音でさえ、自分の部屋でなってるんじゃないかと疑うくらいに音漏れが激しい薄壁の木造アパートなので、寝ていた僕はその音に跳び起きた。しばらくは何が起きているのか訳がわからなかった。
 
しだいに状況を理解しだし、Mが部屋でドラムを叩いているんだということがわかった。それはもう、練習なんてレベルではなく、何か鬼気迫るものを感じる程の激しさだった。
 
「あいつ、正気やろか」とも思ったが、正気ではいられない程ドラムが叩きたくなる時もあるやろう、と思い僕は黙っていた。髪を振り乱し、必死な形相で一心不乱にドラムを叩いてるMの姿が容易に想像できた。それくらいの大音量だった。ドラムの音はしばらく続いた。
次の日帰ってくると、Mの部屋の戸には大きな張り紙がされていた。張り紙には「近所の者です。夜中の大音量、大変迷惑しています」と書かれていた。
 
 
近況を聞くと、今度フェスに出るんだと言った。福岡で開催される大規模な音楽フェスがあり、それの予選250組に選ばれ、先日演奏しに福岡に行ってきたと。その予選で上位5組に入ったミュージシャンだけが本番、つまりそのフェスに出れるらしい。
「なんと、1位通過だよ。 UAと同じステージに立つんだ」とMが言った。僕が驚いていると、「ようやく人に言えるようなライブができるよ」とMは笑った。
 
 
僕は用事の途中で、Mもまたデリバリーのアルバイトの途中だったので、話しもそこそこに握手して別れた。
「お互い頑張ろう」と、お互いが言った。
Mの手はタコで ごつごつ としていた。