”楽しそうな”猫


「一度シャッターを切ること、それですべては終わる」


2009年の終わり頃、友人に借りて『中平卓馬の写真論』を読んだ。一回読んだだけではとても頭に入らず、何度も何度も読み直した。一ヶ月間、肌身離さず持ち歩いたりもした。出かけるときは必ずリュックの中に入れ、仕事中はベルトではさんで腹の中に入れ、寝る時は枕の下に敷いて寝た。それでも中平卓馬の考える写真というのを完全に理解できた自信がない。


でも読み進めるにつれ、読み返すにつれ、自分の写真に対する考えが少し固まってきたような気がする。考えが変わったわけではなく、どう表現したらいいのかわからなかった曖昧模糊としたものが、少しずつ輪郭を持ち、固まってきたような感じ。


なぜ植物図鑑か?


中平卓馬は言う。

「なによりも図鑑であること。魚類図鑑、高山植物図鑑、錦鯉図鑑といった子供の本でよく見るような図鑑であること。図鑑は直接的に当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする。あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。”悲しそうな”猫の図鑑というものは存在しない。」


写真を始めて少し経った頃に『hysteric Six NAKAHIRA Takuma』で中平卓馬と出会い、横浜美術館での個展「中平卓馬展 原点復帰」でショックを受けた(ペロンペロンに酔っぱらって行き、展示をみている最中に大きな地震がきて、酔っぱらった状態でゆらゆらと揺れている写真を眺めたという稀有な体験も含め)。
中平卓馬の、昏睡状態から回復した後の撮影行為とその写真を知って驚いた。記憶喪失になったのに、回復後写真にかえり、今のあの写真を撮り出したのは、記憶レベルなんかではなく、森山大道風に言えば、細胞にすり込まれるほどにまで写真のことを考え倒していたからなんだろう。


僕のような青二才が、「写真とは」なんて言い切れるはずもない。ただ、10年近く写真を撮り続けてきて、「自分の写真とは」ということを、少しは考えなければならない時期にきていると思う。


自分の写真とは。
僕は図鑑を作りたいとは思わない。陰影、情緒、ありとあらゆる感情、情念をしこたま念じ込んだ写真を撮りたい。
僕は、”楽しそうな”猫の写真を撮りたいのです。